「復活の日」の結末が教えてくれること

何やら物憂げな雰囲気である。

世界的なコロナウイルスの流行によって、渡航が禁止し、東京オリンピックが延期された。昨日緊急事態宣言により、外出自粛が要請され、東京で出版社に勤務する私にもついに在宅指示が出た。
満員電車では、咳き込む人を避けたり、皆一様に緊張感ある時間があったが、週1の勤務で済むようになり、ようやくそれも避けられた。
 そもそも満員電車が苦手(田舎生まれ)なので、私にはささやかな朗報となった。

「ロックダウンなき緊急事態宣言はもしかして憲法を遵守する姿勢を見せるため?」とか、
「小池百合子はしきりに英語を使うけど、間違えてね?」とか、
「土曜日必ず夜を過ごしたあの居酒屋はどうなるんだろう?」とか色々気になるが、ひとまず今の時勢にぴったりな映画を紹介しよう。

「復活の日」

小松左京原作
深作欣二監督
草刈正雄主演

概要

恐怖の細菌兵器のために人類はほとんど絶滅、南極に残されたわずかな人々の生きのびる姿を描く。小松左京の同名の小説の映画化で、脚本は「日本の黒幕」の高田宏治とグレゴリー・ナップ、「赤穂城断絶」の深作欣二の共同執筆、監督も同作の深作欣二、撮影は「金田一耕助の冒険」の木村大作がそれぞれ担当。

引用:映画ドットコム(https://eiga.com/movie/39200/

角川春樹が巨額を投じ、微妙に赤字だった1980年の映画である。当時元旦映画として企画されたが、撮影が長期に渡ったため、「戦国自衛隊」と入れ替えたとか。
角川春樹はなんと南極隊員として出演。見る際はちょっと注目してあげてください。
この商業的失敗(黒字ではないので)により、角川映画はアイドルを起用したいわゆる「ピクチャームービー」路線に切り替え、ヒットを連発する。

・・・しかし、それを角川春樹も故・小松左京もまったく悔いていないのだという。
批評家たちの評こそ辛辣だったが、その理由は一度見てみればわかる。

映画の冒頭から前半部にかけては、パニック映画そのものである。
ウイルスが拡散されるきっかけ、感染拡大による混乱や政治家の動向は非常にリアリティがある。また医療崩壊と終末的事象は深い悲しみがあり、原作に負けない見応えがある。
また、「今のコロナウイルス騒動があと数倍ひどかったらこうなっているだろう」とも感じるような今だからこその見方もできる。

(現にイタリア・スペイン・アメリカではここまでとは言わないまでも、医療崩壊に近い状態になってしまった。ブラジルの墓地の映像なども見ると、この映画は全くのフィクションだと言えないのが実情。なお小松左京は劇中の感染症”イタリア風邪”のモデルとして、香港かぜのケースを採用していたようだ。)

しかし中盤から一転して、私的な感情の入り混じった物語が形成されていくこととなる。主演の草刈正雄演じる地震学者が、南極で生き残り、形成されたコロニーの中で時に思わせぶりに、時に滑稽に人間ドラマを展開し始める。
これがまた前半からかけ離れていて、面白い。普通のパニック映画は1つの敵に対する戦いになり、その中に真実やら本当の敵やらを認めるのがお決まりであるのに、この映画では丸無視。囲われた世界の中で諍いがあり愛があり、社会が形成される様子が描かれる。

(また、中盤では「日本沈没」を想起させる展開もしばしばある)

そして、後半は新しい危機を防ぐために奮闘する。
この危機、全くウイルスと関係がない。(笑)
いや、なくはないが、恐ろしいほど個人的な狂気が関わっている。
(ネタバレはしない)
その結果どうなったのかは、自分の目で確認してください。
(極力ネタバレはしない)

この映画の「愛すべき点」は、映画の展開の異常さである。
いや、ほんととにかく異常!型破りな展開で、いろいろ起きすぎて最後の結末は笑いさえ誘う(笑)
今までみたことのない展開を見たい方は是非ともご覧いただきたい。映画を4本見た気持ちになれます。
おかしな点(通常映画にないポイント)が思い出しただけでも4つはあります。そのことはまたゆっくりネタバレ記事でも書いてみようかなぁ

カルトとも言える映画ですが、実は今見るしかない。
今の危機的状況の中で見ると、やはり身に迫った物語としてみれます。
(特に前半部。他は…みなさんの状況にお任せします笑)

この機会に是非ご覧ください。

最後にこの映画に一言

  • 「スコップであの地蔵のクオリティは無理」

ご査収くださいませ。

ではまた…みなさんもお体には気をつけてくださいませ。

ウイルスに勝ちましょう

キリンジ 「フェイバリット」憧れと失望を包み込む街と光

久々に朝まで飲んで池袋からの帰り道、前職の友人達から聞く景気の悪い話に、少々悲しみながら歩いていた。Spotifyはシャッフルでキリンジ。いいよね。元気が出る曲も、落ち着いた曲も聞けない時、キリンジなら聴ける。

2001年の「Fine」。名曲揃いのなか、ふと気になった。「フェイバリット」だ。

何の気なしに聴いていると聞きこぼしそうな繊細な歌詞が美しく、この曲について書いてみたいと思った。

(解説なんていつも無神経だ。そこに留意していただきたい)

考え方によって何の歌か、意見は分かれるだろう。最もそこに言及するのは最後にするとしようか…

キリンジ「フェイバリット」

キリンジ「Fine」(2001)より引用

騒ぎを抜け出せば

辺りはすぐに明日の朝だ

ここでいう「騒ぎ」は夜の喧騒である。今後の歌詞や曲調を鑑みても楽しい夜の騒ぎではないのは明らかだが、おそらくは個人的な夢や、夜に行う仕事のことを指す。例えば作品を作る事、もしくはナイトワークも考えられる。

行き交うマフラーやコート

人それぞれの街が目覚める

目映いひととき

「人それぞれの街」という言葉には主観による街の考え方が示唆されている。例えば東京という街も、100にんいれば100通りの街があるということになる。朝の光と街に乗せられたそれぞれの人の眼差しが「目映いひととき」を二重に映し出す。

フェイバリット 歩こう

フェイバリット=お気に入りの事象、一番の事象である。ここでは呼びかけるように歌い上げるため、おそらくは代名詞であろう。

灯した愛を抱いて

夢語りの熱が冷めるまで

ここでフェイバリットの意味が表される。主観的な示唆が先の歌詞で表されたことを鑑みても、ここでいうフェイバリットは「愛を抱いて」「熱が冷める」のを待つ自分、ないしは思いを馳せる人である

あの空へ高く 摩天楼の彼方に

白い息を弾ませ そうさ

白い息を弾ませ 僕らは

いつかのように

「摩天楼」に表されるように、どこか空虚な都会のワンシーンが提示される。その中に現れる「白い息」は生命を感じさせるとともに、かつてどこかで意識した冬の景色を想起させる

君は襟を立てて

ブーツでメロディを奏でるさ

ここで明確な人称が現れる。この表現、実にさりげなく聴き手を惹きつけていく。普遍性の高さと美しさを併せ持ちながら、聴き手へ愛する何かを想起させる

凍てつく朝の散歩道

卑わいな落書きでさえ

染めあげる 光りを浴びたら

神々しさを感じる歌詞である。「卑わいな落書き」は冒頭の「騒ぎ」に近い一つの対極である。つまり夜の対極にこの詩の視点があることが確認できる

フェイバリット 歩こう

惜しみない賛辞で

ささくれた心が寝つくまで

「惜しみない賛辞」は「光り」のことであると考えられる。穏やかな朝の光に当てられて夜を越えたことを認識させる。その中で夜に「ささくれた心」は朝、「寝つく」のである

あの空の柔らかい 太陽の産毛に

目を閉じれば何かが そうさ

目を閉じれば何かが そうさ

安らかになる

美しく清らかな一節である。朝を迎えた安心感の中、穏やかに目を閉じる。目を背けるのではない、自然な生理の営みを、なんとも優しく美しく描き出す。

火傷のように疼く

人それぞれの願い

飲み込んで この街は膨らむ

ここで説明されているのは、多様な人々の視点が捉えるもの達とその街である。この詩の主題の呈示である

フェイバリット 歩こう

枯れない愛を抱いて

物語織り成す 毎日

主観的な視点は、「枯れない」。枯れるのは視点が無くなる時であるからだ。つまり、死をもってして個人的な世界は終わる。つまり、「枯れない愛」とは当たり前でありながら終わることのない憧憬や拘泥を表している。ここでいうフェイバリットの個人的なこだわりを描いている

あの空を分かち合う 摩天楼の子供さ

胸を焦がす何かに ベイビィ

胸を焦がす何かに 僕らは

息を切らす

キリンジ「Fine」(2001)

共同体的概念で歌詞は終わる。「空を分かち合う」とたやすく表現しているが、「あの空」を皆が同一に感じる優しさ、そして幻想を映し出す。「息を切らす」には様々な意味があるのだろう。この詩の最大の特徴はこの詩が歌っていることが本歌詞でも当てはまることである。聴き手が優しさに包まれながら、様々な思いを重ねることができる。憶測でさえ許す寛容さを持ち合わせた驚異の歌詞だ

曲を聴いていると誰かに聞いてみたくなる歌詞だ。何を想像したか、誰かと一晩語りたいくらいの一曲だ。語る相手は今はいない、東京の片隅から今ここに記そうと思う。