久々に朝まで飲んで池袋からの帰り道、前職の友人達から聞く景気の悪い話に、少々悲しみながら歩いていた。Spotifyはシャッフルでキリンジ。いいよね。元気が出る曲も、落ち着いた曲も聞けない時、キリンジなら聴ける。
2001年の「Fine」。名曲揃いのなか、ふと気になった。「フェイバリット」だ。
何の気なしに聴いていると聞きこぼしそうな繊細な歌詞が美しく、この曲について書いてみたいと思った。
(解説なんていつも無神経だ。そこに留意していただきたい)
考え方によって何の歌か、意見は分かれるだろう。最もそこに言及するのは最後にするとしようか…
キリンジ「フェイバリット」
キリンジ「Fine」(2001)より引用
騒ぎを抜け出せば
辺りはすぐに明日の朝だ
ここでいう「騒ぎ」は夜の喧騒である。今後の歌詞や曲調を鑑みても楽しい夜の騒ぎではないのは明らかだが、おそらくは個人的な夢や、夜に行う仕事のことを指す。例えば作品を作る事、もしくはナイトワークも考えられる。
行き交うマフラーやコート
人それぞれの街が目覚める
目映いひととき
「人それぞれの街」という言葉には主観による街の考え方が示唆されている。例えば東京という街も、100にんいれば100通りの街があるということになる。朝の光と街に乗せられたそれぞれの人の眼差しが「目映いひととき」を二重に映し出す。
フェイバリット 歩こう
フェイバリット=お気に入りの事象、一番の事象である。ここでは呼びかけるように歌い上げるため、おそらくは代名詞であろう。
灯した愛を抱いて
夢語りの熱が冷めるまで
ここでフェイバリットの意味が表される。主観的な示唆が先の歌詞で表されたことを鑑みても、ここでいうフェイバリットは「愛を抱いて」「熱が冷める」のを待つ自分、ないしは思いを馳せる人である
あの空へ高く 摩天楼の彼方に
白い息を弾ませ そうさ
白い息を弾ませ 僕らは
いつかのように
「摩天楼」に表されるように、どこか空虚な都会のワンシーンが提示される。その中に現れる「白い息」は生命を感じさせるとともに、かつてどこかで意識した冬の景色を想起させる
君は襟を立てて
ブーツでメロディを奏でるさ
ここで明確な人称が現れる。この表現、実にさりげなく聴き手を惹きつけていく。普遍性の高さと美しさを併せ持ちながら、聴き手へ愛する何かを想起させる
凍てつく朝の散歩道
卑わいな落書きでさえ
染めあげる 光りを浴びたら
神々しさを感じる歌詞である。「卑わいな落書き」は冒頭の「騒ぎ」に近い一つの対極である。つまり夜の対極にこの詩の視点があることが確認できる
フェイバリット 歩こう
惜しみない賛辞で
ささくれた心が寝つくまで
「惜しみない賛辞」は「光り」のことであると考えられる。穏やかな朝の光に当てられて夜を越えたことを認識させる。その中で夜に「ささくれた心」は朝、「寝つく」のである
あの空の柔らかい 太陽の産毛に
目を閉じれば何かが そうさ
目を閉じれば何かが そうさ
安らかになる
美しく清らかな一節である。朝を迎えた安心感の中、穏やかに目を閉じる。目を背けるのではない、自然な生理の営みを、なんとも優しく美しく描き出す。
火傷のように疼く
人それぞれの願い
飲み込んで この街は膨らむ
ここで説明されているのは、多様な人々の視点が捉えるもの達とその街である。この詩の主題の呈示である
フェイバリット 歩こう
枯れない愛を抱いて
物語織り成す 毎日
主観的な視点は、「枯れない」。枯れるのは視点が無くなる時であるからだ。つまり、死をもってして個人的な世界は終わる。つまり、「枯れない愛」とは当たり前でありながら終わることのない憧憬や拘泥を表している。ここでいうフェイバリットの個人的なこだわりを描いている
あの空を分かち合う 摩天楼の子供さ
胸を焦がす何かに ベイビィ
胸を焦がす何かに 僕らは
息を切らす
キリンジ「Fine」(2001)
共同体的概念で歌詞は終わる。「空を分かち合う」とたやすく表現しているが、「あの空」を皆が同一に感じる優しさ、そして幻想を映し出す。「息を切らす」には様々な意味があるのだろう。この詩の最大の特徴はこの詩が歌っていることが本歌詞でも当てはまることである。聴き手が優しさに包まれながら、様々な思いを重ねることができる。憶測でさえ許す寛容さを持ち合わせた驚異の歌詞だ
曲を聴いていると誰かに聞いてみたくなる歌詞だ。何を想像したか、誰かと一晩語りたいくらいの一曲だ。語る相手は今はいない、東京の片隅から今ここに記そうと思う。